軽便鉄道
おはようございます!今朝の蔵王は晴れています。この後も雪の予報は出ておりませんが、やはり寒いですね。暦の上では既に春になっていますが、季節はまだまだ冬といったところでしょうか。ところで、先日私は出張で東京に行ってまいりました。
朝、始発の新幹線に乗り込み、東京駅に降り立ったのは8時半。ちょうどラッシュの時間帯にぶつかった事もあり、たくさんの人込みに揉まれながら、JR線に乗り換えて、目白駅までの道程を満員電車に揺られ(東京の人は大変だなあ)と思いながら、目的地の我が蔵王山水苑の経営母体である「Nコーポレーション」の本社、ニッコンビルに到着したのです。そしてその時には電車通勤には不慣れの私はクタクタに疲れていました。もちろん私が住んでいる蔵王町の主な交通機関は「車」です。しかし、この蔵王にはかつて町を縦断する(当時は町ではありませんでしたが)鉄道が走っていたことを知っている方はあまり多くはいらっしゃらないのではないでしょうか?
これが今日の本題です。
その昔この蔵王町を縦断するように走っていた鉄道、その名も「仙南温泉軌道」(これはこの鉄道の運営会社の名前らしいのですが)、かつて日本の地方都市に走っていた、こういう民間鉄道のことを総称して「軽便鉄道」(けいべんてつどう)と呼んでいたそうです。従って、この蔵王町に走っていた鉄道は別名「遠刈田軽便鉄道」と呼ばれていたそうです。
そこでこの「遠刈田軽便鉄道」について少し調べてみました。
この軽便鉄道は大正17年〜昭和12年までの20年間、現在の大河原町から蔵王町遠刈田温泉までの16.6kmの距離を遠刈田温泉や青根温泉、そして当時は一般にも登山が解禁されたばかりの蔵王連峰へ向う人々、または青根地区で産出していた鉄鉱石を乗せて、走っていたようです。
その煙を出しながら、蔵王連峰に向かい勇壮に走る鉄道の姿を想像するだけで、私などは思わずワクワクしてしまうのですが、この軽便鉄道は何ゆえに生まれ、そして何ゆえに消えていったのか・・そこを考えるとこの蔵王が近代に辿ってきた、文字通り「軌跡」を見るようでとても面白いですよ。
元々この蔵王にある遠刈田温泉は、江戸時代までは目立たない温泉地でした。それが明治期に入ると次第に観光地として人々に定着するようになっていきます。
それにあわせるようにして、それまで未整備だった温泉までに至る道の輸送手段の整備への期待が高まっていきました。
こうした経緯から、色々な変遷を経て、この軽便鉄道が誕生したのです。
この鉄道の一つの特徴として、行きと帰りの早さの違いがあります。この軌道には急勾配が数多くあり、特に遠刈田駅と永野駅(現蔵王町永野地区にあった駅)の間は現在のJR東日本の最急勾配の路線で知られている「奥羽本線の板谷峠越え」に匹敵する勾配があったようです。従って、この区間は下りが僅か15分ほどしかかからなかったのに対して、上りがときに2時間ほどもかかることもあったそうです。そして登れなくなると人力で電車を押す場面も当時はしょっちゅう見受けられたようです。当時を知る人は(今ではとても少なくなりましたが)それを微笑み(苦笑)混じりで語ります。
ではなぜ、この地域に密着した鉄道が消えていかなければいけなかったのか?
それは明日のお楽しみ!あまり長くなると、皆様に飽きられては困りますから(~_~;)
とにかくこうして「遠刈田軽便鉄道」はこの蔵王町遠刈田温泉やこの界隈の地域の発展に、たくさんの貢献をしたのでした。